昭和48年6月22日 朝の御理解



御理解第68節「神参りをするに雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ見に徳を受ける修行じゃ。如何に有難そうに心経や大祓を上げても心に真がなければ神に嘘を云うも同然じゃ。柏手も無理に大きな音をさせるには及ばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも大声をしたり節を付けたりせぬでも人にものを言う通りに拝め。」

 信心をさせて頂く心得と云う風に頂いて良いと思いますね。そこで雨が降るから風が吹くからといろんな事情都合が在るからと云うて、えらいと思うたり、それに便乗してはいけないぞと云うことなんです。これは雨風のことだけではない。いろんな例えばお日参りをする、お日参りと云うことを本気で修行させて頂こうと云う人は、ちょっとこんな事情がありました、こんな都合がありましたと云う様なことも云われておりますね。
 だから本気でお日参りの徳を受けようと、お日参りの信心させて頂こうと云う様な願いを立てたり、そこに理由理屈などは神様には届かん。理屈が理屈にならん、理由はこんな訳でしたから。
 そこで出来ないときにはそれに代わる修行をさして貰う様な気持ちが要るですね。
 私共お商売をさせて頂いて、あっちこっち出張などさせて頂きますと、やはりその泊まらせて頂いた宿、前の晩に近所の教会を聞いておきます。そして必ずその近所の教会にお参りさせて頂いたものです。もう他所に行ったときには参りません。そんなこっちゃない、もう本当に尋ね求めして朝早うですね、朝の御祈念は電車も何もありませんから歩いてい行かなきゃならない。しかも道を前の晩に聞いておったにしましても又尋ねて行かなきゃならん。朝早いですから尋ねる人が無い。

 あれは北九州の黒崎に宿をとてあちらでしておる時なんかは、朝そうやってお参りをまだ真っ暗な中を五時の御祈念を頂くんですから分からん。まだ通りもない。そしたら人に合いましたから私が丁度朝参りをしている時ですから一緒に参りましょうと云った様なことがあった。
 そういう時にです、思うことは神様が受けて下さりよるなと云う実感がある。強いです、ただ参ると云うそういう修行させて貰いよるときです。
 成程私のお日参りならお日参りと云う精神を、なら黒崎から善導寺まで参って来る訳には行きません。そういうことじゃないのです。だからその印をそこに表す、そうするとね、その印でも神様が受けて下さると云う、いわば印を感じさせて貰う。
 だから信心辛抱の楽しさと云うか、又は信心辛抱の徳と云うのはそういう風にして頂いて行くものかと云うことを感じることが出来るのです。
 只自分が都合のよか時だけ、例えば今日の御理解を頂きますと、自分の都合のよかごたる風にせろと云うごたる風に最後のところは感じられますね。
 大きな声を上げたり、拍手も大きな音を立てることはいらん。拝むにも大声を出したり節を付けたりせんでも、人に物を言う通りに拝めと仰るのは、どんなにでも良いと云うことは、問題は神様に通りさえすればよいと云うのです。
 そこで皆さんが体験してみなさるがええです。
 朝の大祓いを皆さんと一緒に上げるときにです、やはり先唱の者が上げておるその節に付けなければ、節がちょっと違っただけでも、成程節は付けるに及ばん、自分の我流でもよい。んなら上げんでもよいと云うよりも、やはり先唱の人の一つのリズムに合ってしかも腹の底から一生懸命に大声を上げて、拍手も無理に大きな音をさせには及ばんと仰る、でもそこを忍び手のようなものを打ったんじゃ神様に通うと云う実感はしないでしょう。
 それは皆さんが御神前に出たらもう、出たところから神様と通う実感が出来るような御祈念が出来なされば、音を立てることも大祓いを上げることもいりはしません。
 例えば私が朝の一時間の御祈念なんかはもう第一拍手も打ちません。
  
 昨日私は上野先生に、あんたが朝私を迎えに出て来て下さるのはどうも一、二分いつも早い。どうもタイミングが合わなくていけない。云うなら三十秒なら三十秒の前くらいにあそこへ出てくれると私が御神前にキチッとしているようであるけれども、一分間がずれても私いけない。今日は三十秒前になっても誰も出て来ません。
そしたら幹三郎と直子で戸と襖を開けて出ておるところへ今日は西岡先生が当番でしたから、だからと云うて私は待つ訳にはいかん。ですから本当に緊張して心掛けとかにゃ、そこに出来るこっちゃないです。私の方のその時計とこの時計はいつも違っておらないから、一分でも違わん様にしてあります。早かっても出けん、遅かっても出けん。丁度良い私が祝詞座につかせて頂いたときにはキッチリ四時だと・・・その代わり座った途端拍手も打たん。もう四時には必ずここに座ると神様が受け取って下さるから、座った途端にもう交流しよる。それを早すぎてもいかん、遅すぎてもいかんと、云う風に私はしている。
 この頃から西岡先生が本部でまあ私の信心を聞かれる人があった。合楽の信心とは、それはまあ有難い。一例を云うと朝のお迎えに出るときに、親先生から注意を受けた。あんたのは一、二分早く出て来るからいけんと、キチッとタイミングが出ない、合わない、だかあ心掛けて貰わなければと、とかくそうい信心だ合楽の信心はと、云うたらもうたまがってしまって、それは良い意味か悪い意味か知らんけれども、まあ修行に行きたいけど大変に合楽と云うところは、そういう風に厳しいところなら俺達はとても修行にども行けまいと云う話をしました。 ですから皆さんもやはり例えば、私の・・・信心をさせて頂くいわば私の心掛けなんだ。 もう皆さんがそろっと心の中で上げよると云う風で目をつむって半分は眠っちゃると云うごたる風で、ここから見ておるともう口も開けんな、高天原には一緒につけよんなさる方があるけれども、あんなことで朝の御祈念をした気持ちがするじゃろうかと思うて、いつも思う。やはり大きな声を上げて一心不乱に上げてご覧なさい。神様にいわば次の御祈念がしよいです。次のお願い、述べる言葉が述べよいです。
 してみると大きな声を出すことはいらん。私のごと上げんでもよい。それは問題は神様に嘘を云う様なことがあってはならんと云うこと。只形だけではいけないのだと云うこと。けれども大きな声をしたり拍手も自分の気の済むような、朝の御祈念の例えば私の拍手なんかはもう全然力も入らないし良い音も・・・むしろそろっとした拍手です。
 それでも神様が受けて下さると云うものが心に出来たら、皆さんそれでいいです。でない限りは拍手も工夫して良い音が出るような、又は大祓いでもです、一つのリズムに乗ったら自ずと一人でにづっと上がるようにです、大祓いが上げられる様な工夫をなさらなければいけないと私は思う。
 そこから云うなら神様と交流する気分がね、心持ちが生まれて来るのです。それだから御祈念が有難いことになるのです。
 ですからここんところをお互いが間違えないようにしなければいけません。只有難そうに只有難そうに上げてはおるけれども、心に真がないので神様と通ってないようなものであっては勿論ならないのですからね。
 
 昨日、・・・昨日あの熊本の山田先生のお届けがあった後にお礼に出て来た。おかげで電話がついたからとこう云う。それから又午後は久富先生のところに電話が付いたと云うお届けがあったんです。丁度そんときに秋山さん達親子と久留米の井上さんがお礼参拝しとられた。丁度四時の御祈念に、四時の御祈念を終らせて頂いて、四時の御祈念中に頂いたことを聞いて頂くんですけどもね、久富先生のところのお届けがあった直後でした。その電話が何番かと云うと、2054と云う北野の2054、にわ御用と頂かにゃいかん。に零は和ですね、には御用と。例えばお互いが難儀を感ずる時がある。いわゆる荷を担うとるような時がありましょう。そういう時にはね、もう一生懸命今日の御理解で云う一所懸命。拝むことも有難いけれども一所懸命御用をしておるとその荷を忘れてしまいます。皆さんでも例えば痛かったり痒かったりする時なんか一生懸命何かをするとそのことをコロッと忘れとることがありましょう。その忘れとる間におかげを受けるのです。

 先日ね、ある人がこういうお夢を頂いた。これはまあ結婚のことなんです。その相手の人を数字で書いた三三三九ちゅうて頂いた。そして自分の事を一六三二と頂いた。どう云うことじゃろうかと、 そこで私は申しました。その二つば足してみてご覧ち私が申しました。そしたら四九七一と云うことになった。丁度その朝の御理解が、人間が本当におかげを頂くと云うことは
   腹を立てない、 愚痴を云わない、 欲をしない。
この三つが出来たら人間は極楽だと云うあの御理解を頂いた日でした。だからこれは良くないと云うこと。これはいけないと云う意味じゃなくて、二人の者が欲がないと云う生き方、これはぴったり合うと云う感じだしねと、云ったことでした。
 そういうね、例えば数字一つの上にでも不思議な働きがあるですね。三三三九これだけは分かったらしい。もうお参りを一生懸命してサンキュー有難い気持ちを頂けと云うこと。
一六三二と、それを合わしたら四九七一になった。だから本当に我情我欲を捨てるという行き方にならして貰うたら、この縁談は素晴らしいと云う答が出て来た。と云うことなんですけれどもね。
 これはまあ余談ですけれども、そういう風に久富先生ところの電話番号から咄嗟に秋山さん達に悩みがあるときにはね、本気で御用してご覧、もうそれは忘れてしまう。その忘れとる間におかげを頂ける。

 今日は私は御神前で映画俳優の林与一と云う人がおりますね、と云う字を頂いた。林と云う字は木が二つと書いてある。だからこれは二心と云うこと。迷うておると云うこと。与一とは一つのものを与えると書いてある。
 信心さして頂いておかげを頂く。例えば今日の御理解から云うのです。その一心、その一つの心が出る為に雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ、その辛抱をし抜かねばならんと云うのも、神様に通う程しの神様に向かうそう云うものを稽古する。先程私が申しましたようにです、私の修行を神様が受けてござるなと実感する、感じる。だからおかげになると云った様なものが、次には胸に響いて来るのですよ。
 二心にならんでよか、迷うことはいらん。只一筋に一心に縋って行きゃええ、神様はその一つの心をここでは求めておられるのですよ。一心、ですから、そのいろんな迷いがなくなって一つの心に絞って一心に縋て行けれる。それには一心に縋ると云う。 
 雨が降るから、風が吹くからといろんな事情があるからと云った様なことを口実にせずにです、本気で信心の姿勢と云うものを正さなければならない。同時に最後のところまでが信心の姿勢ですけれども、からと云うてです、成程人間に物云うように頼むときには頼めと仰る様にです、段々信心が分からせて頂いたら、お願いの骨合と云うか、昨日私、あいよかけよですか、の七十七の一寸開いたところに鹿児島の行徳先生が話しておられるところが出ておる。
 それにあそこにお婆さんが居られた。お婆さんがお取次を願われた。身寄りが無い、まあ教会で引き取ってお世話して居られたらしい。それである時お結界にでて来てからね、先生コロッと死ぬごたる風にお願いして下さいちお願いされた。コロッと死ぬようにね、んならいっちょお願いしようかちゅうて御祈念をされた。それかちゅうて今すぐでじゃなかろうもん云うて、そりゃまあいっとき生きたいですからちゅうて、そんならまあいっとき生きてコロッと死ぬごとお願いしようちゅうて、御神前に出てお願いしたけれども、コロッと死ぬようにと云うのがどうも神様が受けて下さらんような気がした。だから又お結界に戻ってお願いしたばってん、どうも神様が聞いて下さらんごたる風ばいちゅうて、だからまちっとお願いの仕方が悪かっちゃなかろうか、も少し工夫してみなさいちゅうて、そしてそう云われた。そしたらそのお婆さんが、とにかく死ぬるまで元気でありさえすればよかつですからとこう云わっしゃった。そりけ行徳先生が云わっしゃった。お婆ちゃん、そりばいちゅうて、死ぬるまでが元気であると云うことならば神様に願うたっちゃ、それは通ずるよと云うて御祈念をされた。そしたら今の御祈念は神様が聞いて下さる様な気がするよと云うてお取次させて頂いたと云う話が書いちゃる。
 どうぞコロッと死にますごと、いくら人に物云うごとと云うたっちゃ、神様が聞いて下さらんもん、そげなこっちゃ。コロッと死にますごとじゃ。
 ところがそれこそ死ぬその日まで、元気で御用させて下さいと云うことならばです、神様が聞いて下さると云われたと云う訳なんです。
 もう本当にですね、前の晩に風呂に入って綺麗に下のものまで替えて、それからそういう掛人のごとして居られるお婆さんですから、もう自分の汚れ物一切を洗濯してしもうてから、そして翌る朝えらい起きてきなさらんけんちゅうちから見げに行ったら、もうそれこそ極楽往生してあったと云うおかげ話が載っておりました。
 どうぞいっちょ身寄りがなかけん、ころっといっちょ死にますごとちゅうて人に物云うごとだけではいけないことが分かるですね。 その筋道が立たなければ、そこで折角この世に生を受けておるのですから、もう本当にお国替えのその日まで御用が出来るお繰合わせを頂かせて下さいと願われた。それがその通りのおかげを受けたと云う訳なんです。ですから人に物言うだけでは神様に通わなければいけないと云う訳なんです。
 だからそういう骨合をこの六十八節では教えられておると思うのです。
 ですから今日私が申しました様なことをです、勿論迷うた心ではいけません。と云うて大きな声を出さんでんええけちゅうてブスブスブス何じゃかんじゃ分からん様な御祈念してよかろう筈はない。拍手もわざわざ大きな音をせんでもよいから云うて、心を込めて拍手も打たなければ駄目だと云う様なことを今日は聞いて頂いたですね。 どうぞ。